契約

1.不履行

 

 

 バシイ! と音を立てて俺の肩に竹刀が打ち込まれた。
「く……わあっ」
 俺は間合いを離そうとして後ろに飛び退いたが、その勢い余って豪快に尻餅を付いてしまう。
「大丈夫ですか、シロウ?」
「ああ、っと……」
 俺が情けなく起きあがろうとすると、セイバーは既に構えを解いて心配そうに手を差し出していた。

 

 聖杯戦争からはや一ヶ月が経とうとしている。
 普段通りの生活に戻った俺だったが、約束通り毎日セイバーに剣の修行を師事していた。まだセイバーの足下にも及ぶ訳がないが、夕食後、こうやって道場で打ち合いを繰り返している。
「ふう……」
 打ち込む瞬間は加減してくれているらしく、痛みというよりやられたという感が強い。いつかセイバーが本気で打ってくれるように努力しなければと思うが、そんな日が永遠に来ないんじゃないかと思ったりもする。
「丁度良いです、今日はこのくらいにしましょう。シロウはこの後魔術の鍛錬もありますし」
「ああ――そうだね」
 立ち上がってふう、と一息すると俺達は片づけを行い、最後に道場を礼して立ち去った。
 今日は金曜日。明日は学校もなく少しぐらい無理して剣の稽古に励んでも良いくらいだ。
 しかし、週末には必ず決まり事があった。
 遠坂と魔術の鍛錬を行うのだ。
 元々これは、俺の魔術師としてのデタラメさに業を煮やした遠坂が半ば強引に決めたことだった。
 週末に遠坂は俺の家へ宿を構え、そこで魔術の鍛錬を受ける。で、平日にそれを復習し、次の週末に確認する――学校の勉強よりもずっと大変だが、それ以上に魔術師としての実感を得られる修行だと思えば苦にはならない。
 ただ、師匠である遠坂の指導は……はっきり言って手厳しい、というか地獄だ。教える者としての遠坂は色々問題があるとは思うが、そんなことを本人の前で言ったら、あのガンド撃ちでズドンとやられかねない。
 とにかく俺は、遠坂様のご機嫌を取りつつ鍛錬を繰り返すしかないのだ。
 流石にまだ魔術面でご機嫌なんか取れる訳がないから、今はこうやって宿貸しと、食事の世話で今は誤魔化している。
 しかし――どこの世界に、弟子が師匠を居候させるなんて状況があるんだ?
 普通それは逆なんじゃないか――とは思うが、今やすっかり衛宮邸の半住人となった遠坂に文句を言える訳もないし、藤ねえなんかもすっかり仲良くなっているし。
 ――いや、実際はからかわれているのだが、本人はそう思っているらしいので触れないことにする。
 それに、もし宿貸しに関して逆の状況を考えてみたら、つまり俺が遠坂の家へ行くんだぞ? 女の子の家にほいほいと毎週末通うなんて、そんな平安貴族の通い婚じゃなし……うわ、よく考えたら、これって世間からは有り体に言えば「通い妻」って事か?
 そんな状況を考えてしまったら、顔がタコみたいに真っ赤になってしまう。慌てて首を振り状況を忘れようと必死になる。
「?」
 そんな俺の様子を訝しげに見るセイバーなんて殆ど見えない。
 ――とにかく、そう言う訳だ。今日はこれから汗を流してから、遠坂のいる客間に向かい、魔術の鍛錬を行わなければならないのだ。

 

「シロウ、魔術の方はどうですか?」
 母屋に戻るほんの僅かな間にセイバーは尋ねてくる。
「ああ――ま、元々基礎もへったくれもなかったから、未だに初心者同然、ってとこだ。今考えると、俺と契約していたなんて、セイバーも大変だったろ?」
 そう、凛と魔術の鍛錬を始めてから、俺は自らの未熟さをようやく悟ったのだ。
 魔力をセイバーに殆ど供給できていない、なんてのは頭の中では分かっていたが、こうも遠坂との実力差を知らしめられると、本当にセイバーには苦労をかけていたのだと、すまない気持ちばかりだった。
 しかし、セイバーは静かに頭を振ると、
「そんなことありません。わたしはシロウと契約したことについて、苦に思ったことなどありませんでした。むしろ、今こうやってこの世界に残っていることも、凛と契約できたことも、全てシロウのおかげだと思っています」
 花のような笑みで答えた。
「あ、ああ……そう言ってくれると、俺も多少は救われるよ」
 その笑顔にドキッとさせられながら、ぽりぽりと頬をかいてセイバーから視線を反らす。
 ……だめだ、セイバーは無意識なんだけど、その顔は反則だ。どうしてその……俺を惑わすような仕草を、セイバーはしてくれちゃうんだ――!
 と、色々考えている内にセイバーにあてがわれている部屋の前まで来ていた。
「それではシロウ、わたしは部屋にいますので、お風呂が空きましたら呼んでください」
「あ、うん」
 俺はセイバーが部屋に入るのを確かめてから中庭を眺め見て、しばらく頬の火照りを冷ますことにした。

 

 

 

「――ああもう! なんで士郎はこんな事がうまくいかないの!?」
 がぁーっと、凛が椅子から飛びかからんばかりの勢いで立ち上がり、俺を怒鳴りつけた。
「! ……って遠坂、いくらここが離れでも声が……」
「うるさい!!」
 遠坂は尚も俺の非難も思い切り遮って吼える。怒り心頭の遠坂は同じ敷地内にセイバーが寝ていることなどお構いなしだ。
 ここは母屋から離れた、遠坂が勝手に自分の部屋として使っている客室であり、週末のお約束となっている鍛錬の場でもある。
 2時間程前、風呂に入ってさっぱりした俺がやって来てから、まず先週の確認をした。そこまでは何とかなったのだが、今回の鍛錬は俺にとって少々厄介だった。まだ初歩の初歩、自らの体内に流れる魔力回路をコントロールできるようにする段階なのだが、遠坂はこともなく出来るそれが、我流でまだまだ未熟な俺には難問なのだ。
 で、その状況を見ているのに耐えられなくなった遠坂の怒りが爆発したのが、さっきのカミナリだったのだ。

 

「……はぁ。まったく、実践じゃあんなに完璧だったのに、どうして鍛錬の場でこんな単純なのがコントロールできないのかしら……」
 腹の底から魂まで抜けてしまいそうな溜息をついて椅子に座る遠坂は、やれやれと肩を落とした。
 言われるまでもなく、俺は実践――あの時の事をイメージしながら、鍛錬を行っていた。強化、複製。そしてそれらの究極、固有結界――今思えば、まったくどうかしてたんじゃないかと思う程、全てが本当にうまくいったギルガメッシュとの戦いの記憶を駆け巡らせながら。
 しかし、確かに今――俺は一度辿り着いたはずのその領域までたどり着けていなかった。それはまるで、一度通ったことのある道で路頭に迷っている様な状況だ。
 それでも聖杯戦争に巻き込まれる前までとは違って、格段に自らの中の回路を制御できているという自信はある。この状況を情けないと自覚している弟子としては、その辺を酌んで遠坂に見て貰いたかったのだが――やはり、遠坂は人に物を教える技能に関してだけは藤ねえ以下かもしれない。
「とりあえず、これはもう終わり。目標の半分も行ってないけど、それは明日挽回して貰うわよ」
 半ば諦めた口調で遠坂は終了を告げる。
「よかった……」
 俺はその宣言に、つい本音を漏らしてしまった。このままギリギリやられてたら精神上宜しくなくて、出来ることも出来なくなってしまうところだっただけに。
「!?」
ところが、その言葉を聞いた遠坂に、ギロリと睨み付けられてしまった。
「あ、いや……」
 蛇に睨まれた蛙。俺は視線に殺気を覚え、慌てて両手を振って否定を示すがまったく無意味。遠坂は氷のような視線を浮かべると、
「いいわよ、衛宮君。明日はセイバーに頼んで、一日中こっちに時間を回して貰うわ」
 冷淡な響きで、明日の地獄を俺に知らせた。『衛宮君』というところをいやという程強調して。
 蛙が藪蛇。まったく最悪の結果だと俺は自らの軽率さを呪った。

 

 しかし、区切りがついた事でようやく緊張の糸が解れたのか、遠坂の瞳がふっと柔らかくなった。
 椅子に深く腰掛けると、困ったような顔をする。そうして、くすくすと笑いながら、
「まったく、本当に手の掛かる弟子ね。これじゃ、師匠のわたしが他の魔術師に笑われちゃうわ」
 そんな状況が何で可笑しいのか分からないが、遠坂は目を細めて俺を見ていた。
 ――その姿に、あれほどさっきまで言われてたというのに、いきなりドキリとさせられてしまった。
 さっきの怒った顔もそうだし、今の笑った顔もそう。
 それはどっちもやっぱり遠坂らしい反応であって、コロコロと変わる表情は、魔術師とは言ってもやっぱり根っこは女の子なんだって思ってしまう。
「うっ、ああ……」
 そうやって意識してしまったらもう、声も出せない俺がいた。
 それは、その――はっきり言うと、惚れた弱みってヤツだ。
 まったく、師匠と弟子なんだってのを抜きにしても、弟子はすっかり師匠の虜となってしまっていた。
「――ま、その方がわたしとしても教え甲斐があるってものよ」
 やっぱり、そんな遠坂は物を教える才があるのかも知れない。そんな風に俺は自らの考えを改めないといけないと思ってしまった。
「ったく、楽しんでるだろ」
 俺はそんな遠坂に、心にもないことを言ってしまう。しかし、遠坂には全てお見通しとばかり、
「ええ、もちろん。衛宮君は師匠の魔力まで無駄遣いして、出来損ないも極まりないわ。本来は弟子が師匠に魔力を提供するべきなのにね、こんな師弟関係、他に見たこともないわ」
 楽しそうに俺を見下ろしていた。
 ――ああ、やっぱりだめだ。
 改めてそう思う。
 衛宮士郎は、すっかり遠坂凛に魔法をかけられてしまっている。
 こんなの、少し卑怯だと思った。
「……ごめんな、遠坂」
 そして、俺の口から出た言葉は、遠坂への素直な気持ちと、自分への反省も込めての本心だった。と、
「? ……い、いいのよ、士郎は悪く――悪いんだけど、その……」
 遠坂は少しきょとんとした後、唐突に頬を染めながら俯いて俺の言葉を否定する。
「……」
「……」
 そして、そのまま遠坂がなんにも話しかけてこなかったから、言葉では表せない不思議な沈黙が場を支配した。
 何だか、耳の奥がぼうっとして、もどかしいようなこそばゆいような感覚なんだけど、だからといってどうしたらいいのか全く分からない。
 俺達はそんな状況の中、互いに視線をちらちら交わすんだけど、どっちも言葉を紡がないでいるだけ。
 遠坂の仕草。室内に流れる密度の濃い空気。
 さっきまでの状況から一気にこんな雰囲気になってしまうのは、なんだか反則じみていておかしくて、頭が上手く働いてくれなかった。
 いつまでも続く訳がない静寂。
 それをどうにかする手段は、手段は――正直、分かっていた。
 心臓が早鐘を打つ。まるで全身がそうなってしまったと思うくらいに。
 次の言葉を口に出すのは、どうしようもないくらいに勇気とか必要なんだけど、
「あの、さ。遠坂……」
「……」
 俺は、男なんだっていう僅かばかりの勇気を言い訳にして、その空気を無理矢理にうち破った。
「今日も……するか?」
 瞬間、顔が見えない遠坂の肩がぴくっと震えた。
 言ってしまって、そしてそんな遠坂の反応を見てしまって――ああ、と思った。

 

 契約。
 いわば魔力の共有とでも言うべき遠坂と俺の契約は、遠坂からの一方通行な存在でしかない。遠坂の魔力は今もこう、自分の体内に流れ込んで来るのを感じているのだが、現実としてはただそれだけなのだ。
 あの時は、確かにそれでよかった。
 けど……今、セイバーを現界させる為には、遠坂の魔力だけでは不安定で、その為には例え僅かな量でも俺からも魔力をセイバーに提供しなければならなくて、魔力の提供は契約を結んだマスターならば自動的に行うことが出来るんだけど、俺はもうセイバーのマスターじゃなくて一介のダメ魔術師だから――
 次々と溢れる考えに、頭をブンブンと振り回したい衝動を必死で堪える。
 のぼせてきた思考が理性を保つために、必死に理由を押し並べようとフル稼働している。
 つまり、セイバーに提供するならば、マスターを介さなければならない。
 その方法――つまりは俺と遠坂のパスを通す方法で手っ取り早いのが――『する』ことなのだ。

 

「……」
 まだ自分の頭でもこだましているさっきの言葉に、遠坂は答えてくれない。ただ俯いたままじっとして、自分の膝を見つめていた。
 もう何度か繰り返した会話だと言うのに、この瞬間ばかりはお互いどうしようもないのだが……ダメだ、こんなの一生慣れる訳がない。
 俺達はあれから週末いつもこうやって鍛錬を繰り替えてしているけど、その理由のひとつ――いや、それは口実なのかも知れない――は、ちゃんとした契約を結ぶために抱き合うことにあった。
 他にも手段があるって遠坂は言っているけど、一番手っ取り早くて、確実で――俺も自分にそう言い聞かせながら行っているというのに、何でこんな雰囲気にならなきゃならないんだ!
「……」
 無言のまま、遠坂がくるくると視線の先で指を回し何かを紛らわそうとしている。
 その姿を見ていると、段々後悔が生まれてきた。
 もう少し言い方があっただろ!? 毅然とした態度で『正式な契約が結べるよう儀式を』とか『魔力を提供させてくれ』とか。それを『する』なんて、漠然としていてなのに一番ストレートな言葉で言っちまって――!!
 一度思った後悔は、最悪な状況を想定してどんどん膨れあがっていく。逃げ出したい衝動で震えそうなのを必死で堪えて、俺は言葉を探した。しかし、思いつかない。思いつく訳もない、そんな、この状況をどう打破したら良いんだ!?
「あの……」
「士郎……」
 だから、とにかくもうやぶれかぶれ、そんな玉砕覚悟で言葉を絞り出した瞬間、遠坂の声と俺の声がぶつかった。
「え……?」
「あ……」
 本当に偶然。
 驚いた俺に、一瞬こちらを見つめていた遠坂も慌てて体を固くした。
 再びあまりにも重い沈黙。
 タイミングの悪さに、悪循環へ突入しそうな勢い。
 しかし、今度の沈黙を破ったのは、情けない事に俺ではなくて遠坂の方だった。
「あ、のね、士郎……」
 椅子の上からこちらを覗き見るように、遠坂が顔を真っ赤にしながら呟く。
「今日は……あのね、その……」
 消え入りそうな感じで、遠坂が言葉を選びあぐねている。
 俺はまるで助けを求めるように、その続きを早く言って欲しいと願う。
 だが、先はなかなか生まれない。
 口の中が乾いていくのを感じながら、僅かな音を出すのもできないと唾を飲み込むことすら出来ない。
 考えがぐるぐる回る。遠坂がその先の何を言おうとしているのか、今日は何なんだって……
 考えて、考えて。
 そこで、本当に奇跡とも言うべき確率でひとつだけ思いつた。
「あ……」
 瞬間、俺はいやに冷静になっていく自分が恨めしく、しかし感謝すべきだと思った。
「遠坂……」
 そこまで言うが、そこから先を言うべきかどうか迷っている。
 女の子の日。
 思いついたのはそれだった。
 つまり、遠坂は生理が近くて、今日は出来ないと。
 それを口に出すのは遠坂も恥ずかしいだろうし、俺が言うのもはばかられるような気がする。
「あの、さ。無理する必要は無いと思うんだ……遠坂も、その……」
 最後は口の中でしか聞こえないような程の声で俺が言うと、遠坂は何だか慌てた様子で、
「ち、違うの士郎!」
 その先を無理矢理遮るように顔を上げた。
「……」
 視線がぶつかってしまう。
 どうしようもないくらい顔が火照っている筈の俺をじっと見つめる遠坂の表情は、普段とは比べられない程弱々しい物だった。
 そんなだというのに、遠坂は震えを堪えるように、
「違うの……多分、士郎の思ってることとは逆……」
「……」
 俺を見つめた後、また思い詰めたように俯いた。
 逆。
 一体何が逆なのか、そもそも何が逆でないのか、あたまがぐちゃぐちゃで、よく分からない。
 混乱している。
 考えなければならないのに、頭の中が真っ白だ。
 だからなのか、それともそんな俺を知ってか知らずなのか、遠坂は思い詰めた表情で――


「今日はね……中に出しても、いいよ……」
 殆ど聞き取れないような声で、そう――言った。








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